第五章 勝利の日まで(U)


 この少年のケースが、どうして印象深いのかと言うと、私と同じように不当に拘置されている1人である山口コーチが、後にこの少年のご両親の依頼で引き取りに行った時のことを文章にしていて、それが私の胸を熱くするからです。
 私は拘置所に長い間起居しながら、私と同じ罪名で拘置され、あくまで信念を曲げずに検察に対して徹底抗戦の姿勢を貫いているコーチたちのことを思うと、どうしても胸にこみあげてくるものを禁じ得ません。山口コーチの手記を読んでみて下さい。

≪私はAコーチと共に、依頼を受けたその家に着いたのは午前6時過ぎである。だからこの日は午前4時過ぎに目を覚まし、Aコーチの迎えの車を待っていた。Aコーチはもっと早く起きたことになる。
 何故こんなに早く起きて目的地に着かなければならないかというと、第一に、先方が近所の眼を気遣うが為の対策と、寝込みを襲うと言えば乱暴な言い方だけど、本人が家庭内暴力等狂暴で手のつけられないと判断した場合だ。
 ご多分に漏れず、この生徒も登校拒否、家庭内暴力で好き放題振る舞っているらしく、当然私も緊張し、ひと筋縄ではいかないことを予想した。

 先ほど、「家に着いた」と書いたが、これは正確には家でなく事務所兼工場である。
 どういうことかと言うと、この家庭の本家は、この家の息子に占拠されてしまっており、祖母はじめ父母全員がこの事務所兼工場に避難してきているのである。
 ならば息子の食事は自炊か、と思うのだけれど、母親が毎食届けており、顔を合わすと暴力を振るわれるので、軒先にこそっと置いてくるという、全く信じられない話なのだ。こんな話を事務所兼工場の前の道路で話され、とりあえず行ってみようじゃないか、ということで、
「案内して下さい」
と言うと、
「道順を教えますから、あなた方で行って下さい」
と言う。相当恐怖感を持っているらしい。

 仕方なく、我々2人で、教えられた通り、その家の前まで言ったのだけれど、さすが私もAコーチも、母親の異常な態度がただものではないので二の足を踏み、
「ここは身内の人に(息子に)話をして貰う方が得策じゃないか」
ということになった。
 その家は、平屋建てで、立派な松も植わっており、玄関は閉まっていたが、その横の軽トラックをすり抜け、納屋の戸をそっと開ければ中へ入れるようであった。チラッと中を覗くと、旧家らしく土間など見えるのだけれど、茶ワンは散らかりっ放し、固まった飯粒は散乱、古新聞はそこいら中にこれも散乱していた。殺人現場の跡でもこうは乱れていないだろうという状態である。
 事務所兼工場に戻り、我々の考えを言うと、母親は親戚の者に行ってもらうからと承諾したが、母親が来る気はこれっぽっちもないようであった。
 親戚の人が来る前に「家」から息子が出かけると都合が悪いので、我々はすぐ「家」に戻ることにした。ところが家の前で待っていても、親戚の人はなかなか現われないので、2人は意を決して突撃(ホントそんな気持ち)することにし、私が先頭に立ち、納屋の戸から"こんにちは"と言っても返事がないので、茶ワン、固まった飯粒、新聞等の隙間をそろりそろりと進んで行った。

 土間といい、奥にある部屋の散らかり具合といい、まるで幽霊屋敷。その奥の部屋に彼は寝ているようで、私は声を掛けようとした。すると突然彼は、フトンの傍においてあった新聞にくるまれていた柳刃包丁を抜き、むっくり起き上り身構えるのである。
 私はびっくりして、後からそろりそろりついて来ていたAコーチを追い越し、一目散に逃げた。
 何しろ以前にも包丁を持った生徒と対峙し、何ともしづらかった経験が2度程あるので、こっちも必死である。
 彼は追い掛けてくる様子はなかったが、ふと自分の足元を見るとゾウリが片方脱げていた。

 包丁くらいで逃げていては何とも締まらない話だけれど、こんな事で命を落したくない。
 そうこうしている内、親戚の人が来たが、彼を説得してくれる様子がない。
 児童の保護者は義務教育期間中は就学させる義務を負っているのだから、そのように育てなかった親、又は登校拒否するのは保護者の責任だ、と言うのは簡単だけれど、ここまでになった子供を、それでも親の責任で就学させろ、それが義務だ、と言えるだろうか?
 そして、その時親は「国、地方公共団体」のどこへ協力を求めればいいのだろう。

 協議の結果、実力行使しかないということで、玄関の前に我々の車を横付けすることになった。もし暴れても近所への迷惑は最小限に抑えようという考えだ。
 その親戚の人は、玄関横の軽トラックを移動させようと車に乗り込み、エンジンをかけると、例の息子が急に飛び出して来た。しかも手にバットを持っているではないか。彼は何を思ったか親戚の叔父さんめがけて、つまり軽トラックのフロントガラスめがけてバットを一振り、私はやぱいと思ったが、なんの手段もなく、しかし、フロントガラスは割れず、今度は叔父さんが彼をめがけて車を前進させたのである。何ともすさまじい光景であった。
 そんな攻防が済むと、彼は傍に居た私達めがけて追いかけて来る。ここは取りあえず退散とばかり、我々の車の方に逃げたのだが、彼はバットをその車のボンネットに思いきり叩きつけて行くと、又、叔父さんを追い回したのである。
 私は、Aコーチに、彼の容貌、態度からして、我々のヨットスクールで到底扱えるタイプじゃないんじゃないか、スクールで問題を起こされてはたまらんから、気の毒だけどお断りしよう、と進言した。
 しかし私より遥かにスクールでの経験が長いAコーチは、このような子供こそどうにかしてやらなけれぱならない、といった態度で腕組みをし、じっと考えていたが、その結論を出さずじまいで30分ばかり過ぎた。

 もうこの時間になると、普通なら学生は、それぞれ学校へ通い出す頃だろう。私の目の前にも、学生がうさん臭そうな眼差しを向けて通り過ぎてゆく。しかし今ここでバットを振り下ろした若者は……。
 時間が経つと、親戚の人達が何人も集まって来て、彼の行く先を捜しておられた。そしてまた何分がすると、本人は裏から家に入ったらしく、親戚の人は盛んに説得しているようであった。
 我々も家に入りその話の内容を聞いていると、盛んに父母に対する不満を言っているらしく、アイツ等が悪い、ヨットスクールなど行かないと1人、駄々をこねている様子で、これではいつまで話していても埒(らち)があかない事を、親戚の代表者のような方にそっと耳打ちをし、強制的にでも連れて行くことの了解を得て、コーチ2人ですばやく両手を押さえ、車まで連れて来た。そして車に乗せたのである。
 この間、御両親は、初めから最後まで顔を見せなかった。それ程、意思の疎通を欠いていたのだろう。何とも寂しい限りだ。親を責められるだろうか?(中略)

 車に乗せ、落ち着いた彼に、「なんで包丁なんか向けるんだ!」
と聞くと、彼は、
「泥棒だと思ったからです」
 なるほど「こんにちは」と言ったきり静かに侵入して行ったので、こちらも迂闊(うかつ)ではあった。
 しかし、寝間のすぐ横にいつでも取り出せるよう刃物を置いておくというのは、異常としか言いようがない。世相不安な「侍(さむらい)」の時代ではないのだから。気の毒に思っても仕方がないのだが、彼は登校拒否、家庭内暴力を起こしていることで、社会から隔絶された「自分」というものを1番よく知っており、そこへ侵入するありとあらゆるものを排斥しようと過敏になり、このような不必要な防備をするのだろう。無残としか言いようがない。

 彼はスクールヘ来てからは、最初とまどい気味であったが徐々にやる気を見せ、ヨットも、体操もこなし、下膨した顔、締まりのない体も締まりを見せ、同程度の高校生と並べても見劣りしないくらいになった。
 私は彼がバットを持って暴れている顔を見て、Aコーチに、
「スクールで問題を起こされてはたまらんからお断りしよう」
と恐しくなって言ったが、即断せず、腕組みをして考えていたAコーチが仏様のように思えた。≫
 私同様、コーチたちもここ名古屋拘置所で痛めつけられています。「戸塚ヨットスクール」は、自慢じゃありませんが、職員にとって、まことに劣悪な労働条件であったと言わざるを得ません。家族にも満足に会えない。自分の勤めている所がマスコミの集中砲火を浴びて非難される。預かっている子供たちは暴れ回る。その後始末をしに、毎日あちこちを謝って歩かねばならない。スクールから逃げ出した子供たちが自転車や食べ物、装飾品を盗んだりするのは日常茶飯事だったのです。
 中には自動車泥棒をやってのけたり、空屋に逃げ込んで隠れているうちに畳の上で焚火をしてボヤ騒ぎを起こした子供までいるんです。山の中に逃げて行って何日も下りて来ない者、人質をとって家の中にたてこもる者、警察に保護を求めてウソ八百を並べる者、自殺を企てる者……。
 こうした子供たちがいることが発覚すると、"世間"は決まって子供たちを思いっきり"温かい"手で迎えてやろうとします。子供の言い分を1から10まで信用して、私たちが虐待し、いじめ、どうしようもないところまで子供を追い込んだから、子供が耐え切れなくなって逃亡したのだと思い込んでしまうのです。その結果、私たちはサディスティックな狂った集団にされ、そこへ子供を送り込んだ親は情け無用の悪人呼ばわりをされてしまう。しかし、"世間"とその代表者たる教育者・評論家は、子供を本気で直す意志も能力もない。ただ「愛の教育」という新しい精神主義を、無批判に信奉しているだけです。若者を戦場にかりたてていった大和魂と、同質のものに過ぎません。

 こんなことがしょっちゅう起こっていたのです。このアホらしい大騒ぎに、コーチたちが耐えているのは、情緒障害の子供たちの悲惨さを身をもって知り、それを確かに直すことができるんだという自信に裏打ちされていたからだと思うのです。
 また、事実、私たちは何人もの情緒障害児たちを立ち直らせてきたのです。実績があるんです。
 ところが、警察や検察は、そのコーチたちに向かって、
「君たちのやっていたことは初めから犯罪だったのだ」
と言うのです。
「問題児は公的な機関や施設に任せておけばいいのだ。君たちがしゃしゃり出ることはない。そんなところに出しゃぱるからこういうことになるんだ」
などと言い放ったりするのです。もとより、警察や検察の連中にとって、情緒障害児の問題など、どうでもいいことなのでしょう。

 更にはこんなことも言ってのけたそうです。
「君たちは大した罪にはならないよ。主謀者はトツカだ。あいつは君たちを見捨てたらしいよ。弁護料も払わないと言ってる。なのにトツカが黙否を続けているから拘置が長くなるし、罪も重くなるんだ。まあ10年間は保釈はないだろうな。君たちはだまされているんだから、ちゃんとした供述書を早く作って、サッサと出たらどうかね」
 検察に都合のいい"調書"を作るために、彼らはどんなことでもデッチ上げるつもりのようです。

 しかし、コーチたちはひるみません。一緒に情緒障害児に向かい合った私たちは、同じ1つの想いでつながれているからです。
 この子たちは立ち直れる――。
 その熱い想いが続く以上、私たちの"闘い"は終わることがありません。
 2年以上もの拘置生活を、頼んでできるものではありません。私は本当に、この拘置所のどこか、同じ屋根の下にいるコーチたちのことを思うと、胸が熱くなり、また山口コーチが書いていたのと同じように、彼らのことが仏様のように思えてくるのです。

*     *     *

 私が逮捕されて2年目にあたる今年の6月12日から13日にかけて、名古屋の各テレビ局は一斉に私たちの長期拘置について取り上げたようです。その中の1つ、中京TVの記者と名古屋地裁の加藤次席検事のやりとりを抄録してみましょう。

<記者> 検察側の執ような質問によって、(スクールの元訓練生が)間違った証言をしていた可能性があることが、戸塚弁護側によって示されました。弁護側はこの例が示すように、検察側が握っている証拠の中には、戸塚校長らにとって有利になるものが多いとして証拠の公開を強く要請、併せてすぐにも保釈すべきであると求めています。
<加藤検事> 変な論文みたいなものを外へ流したり、あるいはこのォ、裁判になるとですね、応援団のような者が来て旗を裁判所の前に出したりですね、こういうような行動はですね、結局、関係人に対して、証人となるような人に対して圧力をかけ
 お分かりかと思うが、どうも記者の訊きたいところと検事の答えが噛み合っていないのです。とにかく「傷害致死」という罪名で起訴してしまった検察は、今となっては面子にかけても態度は変えられないということでしょう。更にまた、加藤検事は自分たちが保釈を決定するのが当たり前と思っているようです。こうした独善の支配こそが、日本の裁判の実態なのです。
 また、後援会の方が裁判所の前で旗を立て始めたのは、今年になってからのことなのです。それ以前は旗など持ち出しはしなかった。それなのに「旗を立てるから保釈しない」というのはおかしい。第一、旗を立てたから"証拠隠滅"のおそれが出てくるというのは一体どういうわけなのか?
 それから、私の「へんな論文」がなぜ証拠隠滅になるのか。検察の気に入らないことをする奴、言い替えれば、検察官に手柄を立てさせず、官僚としての検察官の出世を遅れさせる奴は拘置所から出してやらない。加藤検事はそう言っているのです。これが日本の検事の素顔であり、本音であります。自分たちが傷害致死と言えば傷害致死なのだ、というおごりが当然のことになっている。保釈しないのが"原則"などとは刑訴法のどこに書いてあるのか。彼らがいかに無理な起訴をし、いかに無理な拘置を続けているか、ということを、加藤検事が自供してしまっているのです。こちらがまともに話をしようとしても到底無理なことが分かると思います。

 今年になって、後援会の役員が総入れ替えされ、役員は全てスクール訓練生の父兄の方になりました。会長は矢野道子さんです。
 旗を立てるようになったのも彼女の考えですし、他にビラ配りや広報活動に力を入れて頂いているわけです。ところが、最近、彼女の勤めていた会社が倒産してしまったというニュースが入りました。
 その後で矢野さんが面会に来てくれました。その時、彼女はこう言ったのです。
「これで後援会の活動に專念できる」
 私はその言葉を聞いて、思わず胸に熱いものがこみ上げてきました。

 矢野さんに限らずに、私たちのスクールに我が子を預けた父兄の方々が、今も大勢捕われの私たちを応援してくれています。私はその温かい支援の手を、これ以上ないほどにありがたいと感じながら、同時に大きな責任感を覚え、また強い自信が湧いてくるのを感じもします。
 負けられない!
 ここでギブアップしてしまっては、絶対にいけない。私にはまだまだやらなくちゃならない仕事があると、痛いほどその気持ちを強くするのです。

 情緒障害児問題は、私たちの裁判とは関わりなく、今現在も日本中で進行中の重大な問題です。私がこれからやらなけれぱならないと考えていることの1つは、ある種の"動物実験"です。
 私が掲げている仮説「脳幹論」に基づき、脳幹機能を刺激し、トレーニングすることによって「精神力の強い」ネズミを作る実験を考えているわけです。これによって、脳幹が情緒障害との相関関係を持っていることが証明されれば、より広範な規模での情緒障害についての研究が進められるようになるでしょう。
 もちろん、このような実験の成果は、10年15年と長い、地道な努力がなければ得られるものではありません。しかし、誰かがやり始めなければ、いつまで経っても「情緒障害」という病気は、どんなカウンセラーにも、どんな医者にも原因のハッキリしない"不治の病"のままなのです。このような長期的な計画のためにも、私にとって「後援会」の存在は、何より力強い味方だと思います。

 後援会の父兄の皆さん、弁護してくれる著名人の方たち、そして全国の支援者の皆さん、これまで私がヨットを通じて色々なことを教わった先輩たち、美浜町にスクールを作ってから、私たちの活動を温かく見守ってきてくれた地元の方々、無料で整体を引き受けてくれた松本先生、食事や風呂のことで甘えっ放しの旅館「角屋」の岩本さんご夫妻、好意的に、客観的に私たちの活動を観察し、報道してくれたシャーナリストの人たち、そしてコーチたちとその家族の方々、妻の幸子、私が感謝してやまない人たちは大勢います。あなた方の温かい支援があるから、私は何度も励まされ、くじけずにやってこられた。また、これからもやっていけるのだと思います。
 しかし、何よりも私の気持ちを動かし、使命感を燃やしてくれるのは、他ならぬ訓練生たちです。
 卒業生から獄中の私に時々手紙が送られてきます。その1通を紹介してみましょう。

「お元気ですか?私は元気で働いています。仕事にはだいぶ慣れましたが、慣れた分だけどんどん嫌な仕事が増えていくみたいです。従業員の間の問題とか……。
 でも仕方ないんですよね、どこでも同じだもの……。よくヨットスクールにいた時のことを思い出します。ヨットスクールにいた時の方が楽しかったなぁーなんて、勝手なことを思う時もあります。甘えてるんでしょうけど、寂しくて寂しくて仕方ありません。
 それでも甘えてなんかいられませんよネ!ヨットスクール根性で頑張らねば!!」
 もちろん、卒業生や、その父兄からの手紙は、こういう内容のものぱかりではありません。
 途中でスクールを逃げ出し、そのまま家に閉じこもり、あるいはまた元の非行グループとつき合い始め、以前と変わらないか、それよりももっとひどい状態になってしまったという報告が綴られている手紙も届きます。

 私には今、その子供たちを直接、もう1度預かって直してあげたい気持ちで一杯です。
 その気持ちは前にも増して、より一層強くなるばかりです。ですが、ご承知のように、私は捕われの身。この身を焦がすような想いで、私は私の"闘い"を続けていかなければなりません。
 しかしながら、私たちの元を巣立って行った卒業生が大勢いること。そして、これからも「戸塚ヨットスクール」へ入り、私たちと一緒に"やり直したい"と思っている子供たち、父兄たちがいることを、体で感じます。
 そのことが消えてしまわないうちは、私がどんな境遇にいるにせよ、それでも私が直す!と叫ぱないではいられないのです。
 それでも私が直す!
 これが私の心からのメッセージです。




[編集注記]
 本書編集上の経緯について若干の注記を致します。
 あらためて記すまでもなく、著者戸塚宏氏は長期拘置中の身であり、様々な基本的人権を制限されております。表現・通信の自由についても同様であります。手紙、面会の形でしか著者と交通できず、それには厳格な検閲が伴います。
 こうした条件下で、本書は主要には手紙のやりとりと原稿の宅下げという手順を踏んで編集されました。
 本書に収録された原稿量の2倍ほどの原稿が編集部に届き、それが再構成と一部文章の整理を経て、初校ゲラとして作成されました。このゲラに、差し入れ、宅下げという手順を通して著者の手直しが加えられました。
 さらに再校ゲラについては、著者の手紙による指示を受けて手直しされ、決定稿の完成を見た次第です。
 先に述べたように煩瑣な手続を経たため、当初の出版予定よりも大変に遅れた出版となりましたが、ようやく著者の痛切な声が公のものとなったことを、著者とともに喜びたいと思います。
 本書が成るにあたって尽力を惜しまれなかった戸塚幸子氏、飯田康之氏、戸塚ヨットスクール関係者各位に心からお礼申し上げます。

飛鳥新社 出版部