第五章 勝利の日まで(T)
≪朝は6時に起こされ、朝食前に体力作りのための体操がある。まず、砂浜でのランニング。それから7時過ぎまでのたっぷり1時間が、今までダラダラと生活してきた僕たちにとっては、"しごき"にも似た厳しい時間となる。筋力、持久力をつけるために、腕立て伏せを中心に、腹筋、背筋、屈伸、2人1組で足を持ってもらい手で階段を上下する運動など。そうとう身体に自信のある人でも、この1時間は厳しいなんていうものではないと思う。しかも、途中でくたぱってしまうと、コーチに叩かれ、蹴られ、泣きわめきながらでも終わりまでやらされるのである。「ヨットでもやらせてみよう」と思い立った父親の提案に、興味を動かされた東山君が、我が「戸塚ヨットスクール」に入校した直後の頃の様子です。生やさしい状況でないことは、東山君の文章からも伝わると思います。
朝食後は、午前、午後とも海上でのヨットの練習である。(昼食の時間だけ上陸する。)しかし、海上でも、一体、ヨットに乗るために来ているのか、怒鳴られるために来ているのか、判断がつかないような状態。練習艇は、"かざぐるま"と呼ばれる1人乗り1枚帆のディンギーである。
しかし、生まれて初めてヨットに乗るのだから、当然、前に進むはずがない。おまけに風が強い日だったので、艇は何度も沈(チン=ヨットが横転すること)を繰り返す。今にして思えば、実際の風は順風だったのだが、その時は"強風"に感じた。もう死にものぐるいであった。
初めのうちは専任のコーチが1人ついて教えてくれるのだが、僕はどうしようもなく覚えが悪い。コーチに言われたことに"ハイ、ハイ"と頷くのだが、艇は意志通りに動かない。
"舵を放すな!"、"セール(帆)をよく見ろ!"、"周りを見ろ!"、"シート(セールを調整する綱)を引け!"、"ハイク・アウト(風で傾こうとする艇を、風上側に身体を乗り出して体重で抑えること)しろ!"。
その他、色々のことを言われるのだが、蹴とぱされても、叩かれても、海ヘドポン!と落とされてもダメたった。毎日、身体のあちこちが痛かった。殴られたり、蹴とぱされたりした個所が、ズキン、ズキン。
無我夢中でやったシートの出し入れで、手の平はボロボロ。身体中がヒリヒリ。おまけに朝の体操でヒドイ筋肉痛。
「クッソー、なんてこった。思っていたのと全く様子が違うナー。イテテテ、クッソー」というのが本音だった。参った、まいった。
練習が終わったアトは当然ズブ濡れ。となると、楽しみは、練習後のお風呂と食事。お風呂は冷えた身体を温めてくれる点ではとても良いのだが、ただ、あちこちの傷に熱いお湯がズキズキとしみてつらかった。食事は、自宅でブラブラしていた時に比べ、特に高級な物を食べさせてもらったわけではないが(むしろ、粗食に近い物なのに)、海面で散々にしごかれたアトだけに、それでもすごく美味く感じた。"食事がうまい"ということが、こんなに素晴らしいことだったとは!改めて充実感のようなものを感じた。
就寝には特別の意味があった。
確かに、身も心もゆっくりできるという意味においては、時間も長いことだし、最高なのだが、しかし、その頃の僕は、夜眠る前に必ずあることを考えていた。
それは「どうか、明日という日が来ませんように!」ということだった。
なぜなら、夜がこのままズッと続けば、翌日の練習も無いわけだから…。そして早朝トレーニングも、ヨットのトレーニングも無くなるし……。今思えば、まるで子供のようなことを考えていた。しかし、朝は必ず来るし、厳しいトレーニングもまた必ずやって来た。≫
≪この年の9月から翌年の3月まで、ヨット・スクールでのトレーニングは続いた。獄中にいて、気がつくと考えているのは、いつも≪人間≫のことです。私たち≪人間≫は常に干渉し合い、依存し合って私たちの住む社会を作り上げています。が、情緒障害児と呼ばれる子供たちは、自分もその一員であるはずの社会から拒否され、弾き飛ばされ、自らも社会を拒否し、その中へ飛び込んで行こうとする意欲を失ってしまった≪人間≫なのです。
少しずつではあるが、ヨットの動かし方、ヨットと風の関係、ヨットと海との関係などが解りかけてきた。
頭で理解するというより、身体に叩き込まれ、身体が覚えてきたという方が正解がもしれない。
ヨットが、ある程度思うように動かせるようになってくると同時に、戸塚校長から聞かされていた外洋レースに対する憧れが、ムクムクと頭をもたげてきた。この前、校長から話を聞いた時、別れ際に校長が言われた言葉が気になっていた。
――「おまえもレースに出たいのなら、出してやるゾ」
そして、それは、どうしても抑えられない感情となっていった。一方では、まだ、ヨット・スクールに入って1年間、やっとこさディンギーが動かせる程度の実力で、何を言っているか、という自分の声も聞こえた。けれど、熱くこみ上げてくるような外洋レースヘの思いは、実力のないことへの不安など、どこかへ吹き飛ばしてしまいそうだった。
1年前、何の目的も得られず、何をやってもつまらなく感じ、そして、その結果、高校への登校拒否というカタチでしか自分の存在を表現できなかったことを考えると、まさに、天と地、月とスッポン。我ながら、ヨットの奥の深さを思い知らされたような気がした。
1980年の冬、思い切って戸塚校長にその気持ちをぶつけてみた。
「太平洋横断シングルハンド・レースに参加したいのです――」
一瞬、大きく、とてつもなく大きく、人生の流れが変わったような気がした。何となく目頭まで熱くなった。
「本気で参加したいのか?」
「はい。参加させて下さい」
「よし、そんなに参加したいのなら、協力してやろう。しかし、太平洋を1人で渡って来るのは、東山、おまえなんだゾ」
「はい」
何かがドンドンと変わっていく。何かが、こみ上げてくる。
合宿所の外では、冬の北々西の冷たい季節風が吹き、木々は大きく揺れていた。その木も何か寒そうに見えたが、僕の心は、ホントに熱くなっていた。
しかし、レースに参加するには、莫大な資金が必要となる。スポンサーや乗る艇を探さなければならない。参加したいと言ってみたものの、僕にはアテが全く無い。が、この時の戸塚校長の"言葉"は絶大な響きを持っていた。僕には、そう感じられた。≫
≪@ 例えば、戸塚ヨットスクールに中学3年生の男の子を預けたことがある母親の1人は、さらに、もう1つの例が同じ陳述書の中にありました。この少年のケースは、別の意味でも印象深いので引用しておきます。
「事故が続いても戸塚ヨットスクールを訪れる親が絶えないと聞きますが、その気持は本当によく分かるんです」と前置して次のように述べたという。
「小さい時からわがまま一杯に育てたせいか、いわゆる登校拒否になりましてね。もう、朝になるのが嫌でした。学校へ行きたくない、と部屋にこもったっきり出てこない。何とか引っ張り出しても、今度はトイレの中にこもってしまう。トイレのドアを外側からぶち破ったこともしばしばでした。会社に行っている主人に電話をかけようとすると電話線を切ってしまう。揚句の果ては火をつけられたこともあったくらいです。もちろん暴力もありました。
もう、これ以上はどうしようもない。このままの状態が続けば、私が息子を殺すか、息子に私が殺されるか、どちらかだというところまで追い込まれました。それほどひどかったんです。死んでくれても構わない――正直言って、それぐらいの気持でした」
A また、ある父親は、最近次のように訴えている。
「中学に入った頃から、息子が登校拒否になり、家庭内で暴力もふるうようになった。児童相談所や神経科の医師、心理学者など、考えつくところには当たってみましたが、効果は、全くありませんでした。学校?とっくに見放されています。
そのうち、私は胃潰瘍になるし、女房はノイローゼですよ。完全に家庭崩壊の一歩手前です。それで、戸塚ヨットスクールに預けようと思いましたら、この騒ぎ。どうすれぱいいんでしょう?私や女房に悪いところがあれぱ認めます。しかし、そうこうしていくうちに息子は、どんどん悪くなっていくんです。1日も早く何とかしなけれぱ、息子はダメになってしまう。
家の中はメチャクチャです。
どこに入れても治る見込みがないから、現実に治った子を持つ親が勧める戸塚ヨットスクールに頼るしか、方法がないんです。そうじゃありませんか。病気を治してくれるなら、正直言って、どこでもいい。どこか、いい所があったら教えて下さい」
B 一男二女の末娘が、中学生の頃、万引きで補導されてから、目に見えてワルになり、毎日、学校に出かけるふりをして遊び回り、暴走族と付き合うようになってしまったと嘆く母親は、こう訴えている。
「戸塚をひどいところだと批判する人たちに私は聞いたんです。暴走族の子供達と1度でも口をきいたことがありますか、非行少女と言われる子が何を考え、どういうことをやっているか知っていますか、と。
皆さん、そんなこと何も知らへんでしょう。そういう子を預かるというのはほんま大変なんです。子供たちを叩いたんがいけんと言うけれど、私かて、何度娘と取っ組み合いのケンカをやったか分かりません。いっそ、娘を殺して、みんなで死んでしまおうかしらと思ったことも1度や2度ではありません。
戸塚ヨットスクールが悪いかどうかとか、殴るのがええか悪いかなんて次元のことやない。その子が一生ダメなままで終わるか、それでも何とか立ち直るキッカケがつかめるか、その境目にいるということなんです。あの子がダメなままやったら、もう私は死んでも死にきれません。これは、世間の人が言うような"子捨て"や"無責任"やないんです。子を捨てられるくらいなら、そして、本当に無責任なら、もうとっくに投げ出しています。そんなこと誰ができますか……」≫
≪ここに、その間の実情を示す好例がある。昭和57年6月から同年11月の末まで戸塚ヨットスクールにいた、16歳のある少年A君の例である。
この少年の母親は次のように述べている。
「この子は、小学校時代はごく当たり前の子供でした。友達も多く、どちらかといえば腕白坊主というタイプで、算数が得意でした。主人の体が弱いので、私が店に出てはいましたけど、夕食はいつも一緒にとるようにしていましたし、年に1度は旅行にも行っていました。1人息子ですから、できるだけのことはしました。かまい過ぎたのかもしれません。でも、けっして過保護には育てていませんし、溺愛したのでもないと思います。成績は中くらいでした」
ところが、A君は、中学に入ると、いわゆるツッパリグループと付き合うようになってしまい、2年生になると、登校拒否が始まり、6月になると、全く登校しなくなってしまったのである。
「登校拒否の原因は、息子の友達が私どもの家庭の悪口を言ったのがキッカケだったそうです。担任の先生も心配して、うちを訪ねてくれましたけれど、息子は嫌がって"その敷居の内側に一歩でも入ってみろ"と言う始末でした。
私も困ってしまい、精神科の先生を訪ねたりしましたが、とにかく"本人を連れて来い"と言うぱかり。ひどい先生になると"腕ずくでも連れて来い。そうすれば入院させる"と言いながら、"薬を投与しても3年はかかりますよ。ま、このまま3年間放っておくのと大差はないな。3年たって、本人が鮨屋の小僧にでもなろうかと、言い出すのを待つしかないな"と言うんです。私は、どうしていいのか分かりませんでした」
A君は中学を卒業し、暴力をふるうようにもなった。しかし、母親が児童相談所に行くと、18歳までは、子供を預かるのがタテマエになっているのだが、A君は義務教育が終わっているからダメだと断られたのである。
心理学の先生、県の衛生センターの先生、誰もが具体的なアドバイスをしてくれなかったと言う。逆に、「もう子供を捨てなさい。自分の子供と思わないことです」とケンもホロロ。
しかし、そうこうしているうちに、A君の家庭内暴力はエスカレートしていった。棒で両親を殴る。障子、ガラス、フスマなど跡形もなくなっていた。タンスの中からは、洋服を引っ張り出し、カッターナイフで切り裂く。そのナイフを持って、両親を追いかけ回す。
A君のこうした行動は夜ばかりだった。昼間はおとなしく、部屋に閉じこもったままで、夜になると親、祖母までがケガを負わされるようになり、このままでは殺されると思って、とうとう両親は家を出てしまった。A君だけがその家に残ったのである。
食事は、A君の寝ている間に、母親が冷蔵庫に入れに行っていたが、これでも"危険"になった。家の軒下のサオに、3食分の弁当をぶら下げることにしたという。
しかし、それでもA君は、自転車で食料を届けに来た母親の姿を見ると、追いかけてきて殴る蹴るの暴力をふるっていた。
「殺せるものなら殺したいとすら思いました。息子は、長い間陽に当たっていないので、顔は真っ白。太って、動きも鈍くなっていました。戸塚ヨットスクールのことは、2月にテレビを見ていたので、捜し回って、5月にやっと見つけました。2件の死亡事故のことも知っていました。でも"死んでも仕方ない。イチかバチかだ"と思い、迷いはありませんでした」≫