資料U 国会衆議院法務委員会議録 (U)


○寛政府委員 証拠開示の関係でございますが、まず一般論として申し上げますと、検察官が捜査の過程で収集した証拠、それを全部最初から見せろということをおっしゃる方はほとんどないのではないかと思います。そこで、検察官と致しましては、そのうち公判廷で取り調べを請求する予定の証拠、これにつきましては刑事訴訟法の精神、趣旨にのっとりまして第1回公判期日前、その他できるだけ早期に弁護人側に閲覧の機会を与えるということでございます。

 それからまた、検察官が取り調べを請求する意思のない証拠についても、最高裁決定等色々ございますけれども、公益の代表者である検察官の立場、それから被告人の具体的な防御の問題等を勘案致しまして、その事案の性質、審理の状況等に応じて、真に必要なものについては適正に開示するという努力を致しておるわけでございます。

 本件と言いますか、また具体的事件になるようでございますけれども、この事件につきましても、検察官の方が現在までに約450点の証拠を開示致し、約6割くらいが同意、その余は不同意ということになっておるようでございます。不同意の書証につきましては、それにかえて証人を請求して証人調べが行われておる。それからもう1つは、その当該証人の検察官調書あるいは警察官調書等がある場合でも、これは審理の経過にかんがみ、書証ではなくて当該証人に公判廷で直接証言を求める、刑事訴訟法の直接審理主義にも合致するわけでございますが、そういうものにつきましては、これは事前にはその当該調書を開示は致しておりません。ただ、その当該証人を証人尋問する段階になりました場合に、当然被告人側も反対尋問することになるわけですから、その準備のためということで、その都度その段階で開示を致しておるということで、本件についても同様の措置がとられておるようでございます。

 それから、先ほど石原委員御指摘の鑑定書の点でございますが、私どもの承知しておりますところでは、小川君の死因についての医師の鑑定書は1通のみでございまして、これは既に開示済みでございます。それから3通あるというのは、これは別の事件の、吉川事件の鑑定書が3通あるということでございますが、これらについても全て開示済みでございまして、特にそういうもの、その死因等については当然公判廷で明らかにしなければならない事実でございますので、その過程で当然開示され立証がなされているというふうに承知致しております。

○嶋崎国務夫臣 今刑事局長からお話があった通りでございますし、私自身も、告発が前提になっている関税法違反、それから査察事件あるいは間接税、そういう仕事を随分長く国税庁でやっておりまして、その取り調べに入ったことも再々あったわけですし、その場合の開示その他の問題につきましても、そんなに円融自在に事柄を処理しているというようなことは全くございませんで、色々な差し押さえ物件等についてもきちっとした一覧表を作り、それを開示して、また現にそういうものの金額を確定しなければなりませんから、不利な証拠というものを充分提示して処理をしなければならぬというような過程をやったことはあるわけでございます。

 警察庁の仕事の立て方、色々御批判もあるし色々な論評があると思いますけれども、しかし私は、日本の警察制度というのはそういう意味では非常にきっちり行われておると思っております。

○石原(慎)委員 ちょっと今、私の錯覚もございました。間違えましたが、3通の調書があるのは小川君でない少年のケースでございました。ただ、私がごく最近聞いた時点では、まだこの3通の鑑定書と言いますか調書が開示されてなかったので、もう既に2年に近い勾留が続き、裁判も行われている段階で、この大事な証拠の開示がないということはちょっと遅過ぎるのではないかと思ったので、そこにちょっとタイムラグがございましたけれども敢えて質問を致しました。その調書が開示されているなら大変結構でございます。

 それから、今税務署の査察の話を例に引かれました。これは余談みたいな話になりますが、つい2、3日前にある公認会計士会の非常に偉い幹部の公認会計士の先生と話をしまして、たまたまこの問題が出ましたら、石原さん、検察とか警察で色々なことがあるかもしらぬけれども税務署の取り調べというか踏み込みのあれの方がよっぽどもっと一方的ですよ、ということを公認会計士が自分の体験から言っていました。大臣は大蔵省出身ですから、税務の出身ですし、それに対するカバーリングもあるでしょうし、また認識もあるでしょうけれども、それを受けて立つ方の公認会計士会には、非常に際立って違う意見があるということもついでにお伝えしておきます。

 原則として、調書の裁判というものは自由主義国家の裁判の中では禁忌とされている。これは全くその通りだと思います。つまり、自白というものの証拠性の問題だと思いますけれども、特に不当な長期の勾留によって得られた自白は証拠性が非常に乏しいということは刑法の中にうたわれておりますが、この頃段々自白主義になってきたのですね。最高裁の幾つかの判例なんかを見ましてもまた自白主義が戻ってきて、どうも調書裁判というものが正当化されるというかまかり通るような傾向があるようですが、これはやはり、この頃冤罪事件が頻発していますけれども、これが明かすように傾向としては是正されなくちゃいけない、慎まなくちゃいけない問題だと思いますけれども、その点大臣、いかがお考えですか、基本的な問題ですので。

○嶋崎国務大臣 御承知のように、自白についての色々な憲法上の規定その他があることは重々承知をしておりますし、またそういうことを前提にして、今刑事訴訟法の中でも色々それを補完するような手続というものも規定をされているということは御承知の通りでございます。

 しかし、御承知のように、自白というのは犯罪捜査の中で非常に重要な位置を占めておると私は思うのです。ただ、問題は、それだけで事柄は処理されるものじゃなしに、それを立証すべき客観的な証拠というものを確実に固めて整理をしていかなければならぬということは当然のことであるというふうに思っております。したがって、自白に非常に偏重した、そしてまたそれを鵜呑みにしたような調査結果というのは非常にまずい結果を招いているということも十二分に承知をしておりますので、その点については新しい刑事訴訟法の制度の中で的確に運用されなけれぱならぬというふうに思っております。

○石原(慎)委員 かつては自白は証拠の女王だと言われたことがあるそうですが、それが是正されなくちゃいけないと思うのです。逆にまかり通りますと、死体がなくても自白さえあったら殺人罪が成立するんだということになるので、そういう事態は絶対に避けなくちゃいけないと思いますけれども、これはやはり大臣、御同意頂けると思いますが。

○嶋崎国務大臣 自白だけで事柄が処理されるというようなことがあってはならないので、そういうことを立証されなければならない物的な証拠その他を確実に収集をして対処するということが絶対に必要だというふうに思っております。

○石原(慎)委員 裁判のあり方についてこの頃論議がかまびすしくなったのは、1つは、非常に国民的な関心でありましたロッキード裁判に関して、一審の判決後、その姿勢から、門外漢と言われるような学者たちの間から反論が起こってきた。被疑者が元総理大臣であるから事は非常にクローズアップされるわけでありますけれども、私、たまたまこうした問題に関心を持たざるを得なくなったのは、その戸塚君の事件がきっかけでありますけれども、事のついでにロッキード裁判なるものに対する批判なるものを読んでみましたら、昨年の文芸春秋に石島さんという弁護士が、私たち素人が読んでもなるほどなと思う部分が幾つかある論文を連載しておられる。その中で、私は愕然としたのは、かつて名検事か鬼検事か知りませんが、言われた河井信太郎さんが酒席でざれ歌として、「王将」という有名な歌の替え歌を歌っておられた。その文句は、
   明日は法廷に出てゆくからは
   何が何でも落とさにゃならぬ
   脅しすかしで固めた調書

 私はそれを読んで、本当に背中が寒くなった。これはざれ歌では済みませんですな。私は、この弁護士はいいこと言うなと思って後で聞いたら、これは共産党員だというのでがっかりしちゃったんですけれども、共産党の方いらしたら失礼致しますが、私たちとイデオロギーを極めて異にするので共産党に対しては厳しい批判を持っておりますけれども、しかし全く自由を保障されていない共産主義というものを、どういうわけか、自由にあふれた日本の中で志向される共産党の党員の弁護士が、一種の国民雑誌である文芸春秋の誌上にああいう論文を書くということはまことに皮肉な現象で、一体何がどうなっているんだ、日本はかなり混乱しているなという感じが致しました。

 またこの問題に戻りますけれども、戸塚事件というのは、皆さん専門家だから言われなくても分かっていると言われるでしょうが、自白が取りつけられないと非常に罪状の成立が難しい事件じゃないかと私は思います。また、専門家に聞きましてもそう言われますし、訴因そのものがかなり無理があるなという意見を持つ、実は弁護士だけじゃなしに、友人の検事もおりました。それはそれで、担当の検事の所信ですから私はここで口を挟みませんが、ただある種の裁判の中でどうしても自白というものが必要となってくる時に、それを取りつけるために1つの手段として長期の勾留が行われているという現況は、残念ながらあるのではないかと私は思います。これは厳正にチェックされませんと、そこら辺が裁判官の器量ということになるのでしょうけれども、ある種の信念を持ったグループですから頑張っていますが、脱落していく人もあるかもしれない。

 そこで、結局訴因そのものが、先ほど申しましたように、この事件が持っている、暗示している日本の荒廃した教育の救済の手だてというものを頭から全く認めずに行われている起訴だけに、私は非常に心配がある。むしろもっと頻繁に被疑者の意見が聞かれたり、それに対する反論があったりする方がいいのではないか。密室とは言いませんけれども、非常に限られた世界でこの裁判が行われ、しかもどうやって自白をとるかということに時間がかけられているとするならぱ、これは被疑者にとってだけではなしに、司法にとっても極めて悲劇ですし、日本の国民にとっても悲劇ではないかという気が私は致します。そういう意味でも、春日先生がされようとしている質問は非常に大事だと思いますし、実際に質問がなされましたならぱ、さっきの御意見もありましたけれども、正面から受けとめて法務省全体でお考え願いたいと思います。裁判は、一種の闘いと言うと御幣があるかもしれませんが、検察官と弁護士との丁丁発止の中で、これが開かれた形で公平に行われて、初めて被疑者の人権が守られ、同時に裁判官も、有罪にしろ無罪にしろ、公正な判定を下されるというものだと思いますが、非常に膨大な調書が延べ1万数千人という捜査員で作られて、何でも厚さは7mくらいあるそうですけれども、これが非常に遅いタイミングでしか開示されていないということで、裁判そのものにひずみが出ている気が致します。そういう例が他にもあるのではないかと思って敢えてこれを申し上げているわけです。

 もう1つ、賛否両論あるのは世の常でありますが、先ほど申しましたように、親もあきらめ、先生も投げ出した子供がこの学校で奇跡的に直ったということで、戸塚君を本当に神様、仏様、戸塚さんと言って感謝している親がいるわけです。そういう親の感謝、謝意、つまり肯定的な評価というものを、検察側の所信に盾突くことになるかもしれませんけれども、検察が現地の警察を使って規制している事実がございます。これについてここで論じることは具体的な例になるからお答えが頂けないかもしれませんが、ございます。これは非常に残念なことでして、色々な形である。もっとひどいのは、戸塚ヨットスクール支援会の幹部の人にまで嫌がらせとしか思えない尾行がついて、おまえの証拠写真を撮った、これだけで3カ月引っ張れるぞと言った刑事さんがいる。その証拠写真を見せてもらったら、別にこの戸塚ヨットスクールの事件に直接関係している、手を貸している人じゃないのですけれども、その尾行された人の証拠写真なるものが、その人がどこかで立ち小便している写真だったので、その人もびっくりしたし周りの人も驚いたというのですが、1番ぐあいの悪いのは、謝意を表明している親のところに捜査の方がいらして、余計なことを言わぬ方がいい、君のところの子供は直ったと思われているけれどもまだ確かではない、その兆候があったら即座に鑑別所に送るとか家裁にかけるぞというようなことを言われる。それから、これは知っているかどうか知らぬけれども、監禁傷害致死といって業務上傷害致死じゃないんだ、だからあんなアウシュビッツみたいな所に、事もあろうに親が頼んで自分の子供を入れただけでおまえも同罪になるんだぞということを言われると、これは親は動転します。要するに戸塚ヨットスクールとは絶縁しろという、そういう現象が実際起こっている。

 しかし、これは決して全ての警察の傾向ではございませんで、皮肉なことにこの事件が起こる前に、これは予算委員会でちょっと申し上げましたが、周囲の警察はどこももてあまして、学校で暴力を振るう、家庭内暴力を振るう、登校拒否をする子供たちが奇跡のように蘇生していくので、警察の方々はひそかに快哉を叫んだ。そして、親が、戸塚ヨットスクールに入れたいんだけれども、子供にそう言ったら嫌だと言って暴れているんで何とかして下さいと言ったら、分かったと言ってパトカーを派遣して、警官が暴れている子供を取り押さえて、ヨットスクールのライトバンがその子供を迎えに来るまで警察が手を貸してくれた、そういう事例が現実にございます。あるいは、その学校のスパルタ教育がつらくて脱走した子供が、何とかしてうちへ逃げて帰りたい、うちへ帰ったらまた親にしかられるかもしれないけれども、とにかくあそこだけは逃げ出したいと言って行くんだけれども、町の人もこれに手を貸さない、とうとう子供たちは交番に泣き込んで行ったら、交番のおまわりさんが、分かった、それじゃすぐお父さんに連絡してやるから奥の部屋に入っていろと言って、子供たちをそこに入れて、お茶を出して、実は電話をかけて、おたくの生徒が逃げ出してきて行く所がなくてうちへ来ているから受け取りに来いと通報して、ヨットスクールの車が迎えに来て、こらっと言ってまた連れて行ってしごいて、その2人の子供は更生したそうであります。

 そうなってくると、これは警察の立場も非常に微妙になりまして、親に向かって検察が本気でヨットスクールにおまえの子供を入れただけで親だって同罪で、起訴したらおまえだって起訴できるんだということになれば、検察官が今度は、戸塚ヨットスクールにシンパとしてひそかに共感を覚えて手を貸した警察官まで起訴できるということになる。まことに珍妙な現象が起こっておるわけでございます。

 しかし、この状況を非常に冷静に踏まえた警察当局の発言がございます。これは当時の県警本部長が非常に冷静にこういうことを言っておられる。被告人らの所為については親の委託がある限り必ずしも犯罪とは言えない旨、述べたことがある。そう本部長は言っております。そして、スクールについては将来立派な施設として立ち直って欲しいということも言っておられる。私は、これが大方の日本人の良識を代表した意見ではないかと思いますね。それから、ある検察官の中には、これは本当かどうか知りませんけれども、弁護人から聞いたことですけれども、自分も司法官試験に合格してなかったら戸塚ヨットスクールに行ってコーチをやったかもしれない、これはお世辞か何か知りませんけれども、その後で怖いことを言ったのかもしれませんけれども、そういうことを言った検事もいるそうであります。

 いずれにしろ、るる申しましたが、自白というものが色々な形で大きな意味合いを持たざるを得ない性格の事件の中で、検察と警察とどういう関係にあるかつまびらかに致しませんけれども、検察陣が人を使って、つまり検察にとって不利な自白を規制するようなことが絶対にあってはならないと思いますけれども、これは原則論として私はそう信じます。あったかなかったということ、これは事実としてお調べ願ったらよろしいし、私はその事実を踏まえて申し上げているつもりでありますけれども、原則論としてそういうことがあってはならないと思いますが、いかがでしょうか。

○寛政府委員 石原委員御指摘の数々の具体的な事実としてお挙げになりました点、先生の御論説にも何カ所か出て参っておったと思います。これらの具体的な事実につきましては、私どもと致しましては、事実はない、御指摘のあるいは先生の論説にお書きになっているところとはその事態の経過、内容が違うというふうに考えておりますけれども、これは裁判のいわば情状と言いますか周辺の事柄でございますので、一々これを反駁し、論議することは差し控えさせて頂きたいと思います。ただ、私どもはちょっと違うような見方をしているということだけは御承知おき願いたいと思います。

 一般論として申し上げますれぱ、検察官は何が何でも、起訴したところを自分のした通りするとか、あるいはその戸塚ヨットスクールで立ち直った情緒障害児があるのを全部否定しようとして、警察を使ってそういう証言を抹殺と言いますか変えようとしておるというような点については、そういう事実は全くないと申し上げたいわけでございます。戸塚ヨットスクールについてどういう効果があったかということ、これもまた裁判の過程で明らかになると思いますし、そのことを全て否定しておるわけではございません。この点は裁判所の認定、例えば竹村コーチに対する確定致しました一審判決を見ましても、行為目的があったとしてもその手段方法は社会的許容性をはるかに越えて違法性があるんだという言い方をしておりまして、その目的についての判示もあるわけでございます。したがいまして、検察官と致しましても、そういうような効果があったことは、それが事実であれぱそれはそれなりに評価さるべきであり、片や一方、そういうことがあるからといって、今回起訴されておりますような事実が傷害致死あるいは暴行、監禁等ということで刑事責任をとられるべき行為であるという点とは、また別のことであろうかと思います。

 そういう意味で、何でも被告人の不利なように警察を使って色々な証拠を働きかけるというようなことは事実としてございませんし、そういうことを今まで考えたこともないと思います。被告人に有利な情状も主として被告人側から法廷に提出されて明らかになるわけでございますが、検察官としては、被告人にとって有利、不利な事情を合わせまして、その中で事実を解明し、それに対して法律を正しく適用して、適正な刑罰ならば科刑を得るということが目的なわけでございます。

 そこから先、情緒障害児をどうすべきか、国がもっと力を入れるべきであるとか、その情緒障害児の原因が脳幹等云々であるというようなことについては、検察官としては全く職責外と言いますか自分の範囲を越えた問題でございまして、その点について影響を与えるというような気持ちは全くございません。それはやはり、それぞれの分野で適切な対策がとられるということを検察官個人個人も心から期待しておるものというふうに考えております。

○嶋崎国務大臣 今刑事局長からもお話がありましたけれども、本件については公判係属中のことでございますから、私からこの問題についてとやかく言うつもりはありません。しかし、1番初めに委員からお話がありましたように、情緒障害児が非常に多い、日本は非常に特殊な現象であるというような御指摘がありました。私もその点については、そういう方々が非常に多いということはよく認識をしておるわけでございます。そういう中で松永さんは特に家庭だと言われた、私は非常に理由があるように思うのです。この頃核家族になってきておりまして、子供を大事に育てるというようなことで、甘やかしてどんどん育てていくという中でこういう状態になっているような人が非常に多い。また、それを規制をするというところで、きちっと折り目がつかない家庭なりというものがある。また、社会環境自身もその辺について非常にルーズになってきておる。そういう環境の中で、私も関係のことで神経科の先生に色々な相談をしたこともあるわけですけれども、そういう時に折り目をつけたことをやっていかなけれぱならぬので、今までの慣習の中でずっとやっていったのじゃいよいよ事態が悪くなるんだというような指摘をされたこともあります。そういうことは、この問題を取り上げていく場合に、そういう情緒障害児の方を持っておられる人の感覚として、何か折り目をつけていくようなチャンスがあったら、またそういうことによって立ち直るという事例も私はないわけじゃないと思うのです。

 しかし、御承知のように、本件については2名に対するところの傷害致死事件であり、また2名に対するところの監禁致死事件であるという現実もまたあるわけでございます。したがって、そこは、この公判事件を考える場合によく御判断をして頂かなけれぱならぬことではないかというふうに思っております。

 それからもう1つは、先ほど私は自白について申し上げましたけれども、まず自白があるのではない。私は色々なことで関係の仕事をやらせてもらったこともありますけれども、まず客観的にこういうことがあるからということで大体自白というのは出てくるわけでございまして、最初から自白が走るというようなケースというのは、我々がやった例でもほとんどないという感じすらするわけでございます。したがいまして、自白万能主義で、まずそれがあって、それの客観的な証拠を固めていくというような説明に先ほどの説明が聞かれたとすると、そういうことではありませんので、よく御理解を頂きたいと思っております。

○石原(慎)委員 法務大臣に盾を突くわけではありませんけれども、今大事なことを言われたのですね。これは確かに事件が係争中でありますけれども、法務大臣は、要するに傷害致死、監禁致死という2つの事実があると言われたけれども、これはちょっと不当な表現で、その容疑があると言うならいいですけれども……(嶋崎国務大臣「容疑でした」と叫ぶ)容疑ですね。容疑という事実があると承っておきます。大臣がその事実があると言うと、裁判官を通り越して1番偉い人が断定されたことになりますので。

 色々申し上げたいことがあるのですけれども、1つ、これは裁判の手続きの中で実際にあった事実でありまして、これに関しては裁判所が非常に適切な処置をしたと思うのです。起訴された後、弁護人と被疑者の接見が一時期非常に阻害されました。大体3日に1回、しかも20分ということで、検察官の指定がなければ接見は許されないという全面禁止が行われた。これはちょっと常識外のことであったと私は思いますが、さすがに裁判所は、これを要するに非合理であるということで解禁を致しました。これは極めて妥当な措置だと私は思いますし、そういう評価も致します。ここでそれが妥当であったことを今さら政府のオーソリティーから繰り返して言って頂く必要はないと思いますけれども、どういう裁判官か存じませんけれども、こういう非常に思い切った判定を下さざるを得ないような手続きの不便というものが講じられているということは、この裁判に限ったことなのか限ったことでないのか知りませんけれども、お耳に入っているかどうか分かりませんけれども、ひとつ御認識頂きたい。もしこれが裁判の時によく起こり、裁判官がそういう問題に異議を唱えなければまかり通るとなると、非常に裁判そのものが成果を問われるということになるのではないかと、私は、この件については納得致しましたけれども、改めて新しい憂慮を抱いたものでございます。

 次は、拘置所の問題について伺いますが、私、戸塚君に名古屋の拘置所に面会に行って驚いたのです。これは監獄の中に拘置所が部分的に同居している。棟が同じなのか部屋が別なのか知りませんけれども、とにかく同じキャンパスの中におりまして、管理者も共通している。未決がどれくらいのパーセンテージだか私は知りませんけれども、ともかく囚人がいるわけですね。衣服は違いますし待遇も少し違います。ただ、同じキャンパスの中で未決と既決とを共通した管理者が管理していると、人間ですから、どういうわけか知りませんけれども、勾留理由に逃亡のおそれもありとされていないのに、その段階から腰に縄をつけられて法廷に引き立てられていく未決囚を眺めていて、やはりある種の混乱とか混同、錯覚を管理者が抱くのは妥当だと思いますね。私はやはり本来拘置所と監獄というのは別々の所にあるべきだと思います。それが望ましいと思います。予算の都合もあるのでしょう。ですから私は、もしそれが別の所に設けられるためには予算が足りないのだったらこれから一生懸命お手伝いも致しますが、本来拘置所と監獄はやはり別の所にあるぺきものだと思いますけれども、これはいかがですか。

○石山(陽)政府委員 お尋ねの名古屋の拘置所ということに限定してお答え申し上げますが、名古屋の拘置所は本来は未決を入れるための専門施設でございまして、実は監獄として、いわゆる受刑者の収容施設として使うという二重の目的は本来あの施設は持っていないわけであります。

 しかしながら、たまたま、あるいは委員のお目にとまりました事態で既決の人もいたということでありますならぱ、これは、いわゆる未決の人は公判、裁判等のために出廷がありますし、作業を課すわけにもいきません。そのために、その未決囚を含めました炊事でございますとか洗濯の業務でありますとか、こういう雑役に従事するために、既決囚からいわゆる経理夫というものを拘置所に派遣しております。それらの人々が混合収容されているという事態、これはどこの拘置所もあり得るわけであります。

 名古屋の場合には約5、6百名の収容者がありまするが、その中で既決の状態になっている者が百数十名おります。大きく分けますると、裁判が確定しまして正式な既決囚として、しかるべき受刑施設に移送するまでの間身柄を預かっている人、これが非常に数多くあります。それと先ほど申し上げました雑役に従事しております経理夫でございます、こういった者がおるわけであります。しかしながら、この2種類の被収容者は、仰せのごとく混合拘禁するということは絶対に致しておりません。これは同じ拘置所の中でも厳に分画されました別の収容地域に、既決囚は既決囚ということだけで生活させております。それから、もちろん処遇目的そのものが全然違いますので、未決拘禁者に対しましては先ほど申し上げた通り作業を課さないわけでございますし、既決の方は、ただいま申しました作業に相当するもの、いわゆる炊事とか洗濯とかといった雑役系統に従事する。これは具体的な作業になるわけでありますが、また強制処遇と致しまして、受刑者は処遇目的が全然別個でございまするから、受刑者にはそれなりの処遇、教育といったことを別途に実施しておる、これが実態でございます。

○石原(慎)委員 そうすると、名古屋の場合、あそこにいるかなりの数の既決囚は拘置所を運営するための必要要員としているということですね。

 でも、かなりの数の人がいまして、それはその分を全部民間から雇うわけにもいかぬでしょうから必然的にそういうことになるのかもしれませんけれども、私が混同、錯覚と言うのは、既決か未決かを物理的に取り違えるということではないのですね。眺める意識です。つまり、未決の拘置者に対する管理側の姿勢というものにそれが出てくるのじゃないかということで申し上げたわけです。

 戸塚君から度々手紙をもらうのですが、彼自身もああいう所に入るのは初めてなので、びっくりして色々なことを書いてくる。私も、この間1回面会に行った時についでに視察を致しまして、大変丹念に案内をして頂いたのですけれども、その時に戸塚君の訴えというのでしょうか、不満をただしましたら、それは法規で決められた通りのことをやっておりますと所長は言われました。多分そうなんでしょう。ただ、最初の6カ月間、戸塚君自身も自分で測ってみたら、野外に出て太陽を浴びながらぶらぶらする時間が延べで27時間であった。これは彼は非常に少ないと言っているわけです。彼のような一種の野人にとってみれぱ尚さら強く感じられるところでしょうが、私でもやはりそれは少ないような感じがするのですね。建物だってこの頃うるさくなりまして、東京で家を建てる時に、冬至の時に何時間日が当たらなかったら建てさせないというような日照権があるのですから、人間は生きているから何とかなるだろうということでこれは済まないので、建物より人間の方が大事です。つまり、未決の拘置者の日照権はどういう根拠で出ているのでしょうか。

 それと、こういうものはアメリカの拘置所どころか監獄に比べてもかなり厳しい条件だと思います。厳しいと言えぱそれで済みますけれども、かなり非人間的というか、つまり拘置者というのは裁判を受ける前の人ですし、起訴されても無罪の推定で裁判を受けるわけですから、拘置の原則というのは監獄法にうたっているかどうか知りません、私はそこまで調べてませんが、要するに身は不自由に勾留されるけれども、平常の生活にできるだけ近い状況で勾留をさせるというのが原則ではないかと思うのです。まずそれを確認したいということ。

 それにしてみても、6カ月で27時間云々という日照時間というのは、都会の日照権の問題に比べてもかなり厳しいというか不自然であると私は思うのですけれども、そういう論拠はどこによって出てくるのか。日本中の拘置所に共通した規定があるのでしょうか。