第三章
仏教に学ぶ


 この章では、あらゆる事象を科学的に捉えるための思考法に導いてくれるという仏教に触れ、仏教から正しいトレーニング、行動をするための教え(公式)を学び、それを我々はどう利用すればいいのかを検証していただく。


建前論が教育を荒廃させる

 私は、この本でトレーニングの重要性を述べております。それなのに宗教である仏教と何の関係があるのだろうかと思われることでしょう。しかし、宮本武蔵が「五輪之書」で見事に仏教を利用しているのをみれば、仏教には何か上達の極意が説かれているように思えませんか。そうです、仏教は他の宗教と一味も二味も違い、進歩の仕方、トレーニングの方法が「公式」化されている、まことに実用的な「宗教」なのです。

 諸行無常
は、仏教が"成り立つ"ための大前提、そしてその土台となります。平家物語に使われたことや「ああ無情」と同じ響きを持つため、「盛者必衰」の意味に受け取られがちですが、無情ではなく無常です。行は仏教ではもっとも重要な言葉であり"変化"のことです。諸行無常は、全ての変化は止まらない→全て変化する、の意味です。そう、マルクスやヘーゲルの弁証法の基礎と全く同じなのであり、全宇宙の基本です。
 そして、諸行無常を基本とする限り、それは科学を目指しているのであり、宗教とはかけ離れたものです。宗教には神の存在が必要なのであり、神は絶対不変だから神なのです。諸行無常は神の存在を否定しているのだから、それを大前提とする限り、仏教は少なくともその発生において、宗教ではないのではないでしょうか。神頼みでなく、科学的に生きる道を教えてくれているのです。

 進歩というのは"変化"、行動も"変化"、精神も脳による情報処理ですから"変化"といえます。ですから、我々は進歩や行動や精神に、釈迦という大天才が創造した"変化の法則"を利用しない手はありません。
 諸法無我
 ここからが仏教の始まりであり、標題みたいなものです。諸法は変化の法則、変化の仕方のことです。無我は自分の思い通りにならない、自分の都合には合わない、という意味です。つまり、諸法無我は、変化には法則、規則があるので都合よく変えられない、ということです。進歩しようと思ったら、その変化の法則をよく知ってうまく利用しなくてはなりません。
 この変化の法則、規則に逆らうもの、守らないものが、この宇宙に唯一つだけあります。それが、人間の理性です。本能が逆らう場合が神経症ですが、これは意図的にやるものではなく、勝手にそうなってしまう病気です。人間の理性は、それを意図的にやる唯一のものです。この法則に従わない理性のことを「我」といい、法則通りの理性を「空」といいます。空は我でないこと、つまり、「無我」なのです。よく、空と無をいっしょにする人がいますが、それは大間違いで無ではなく無我です。ここを間違えるから、仏教そのものがわからなくなってしまうのでしょう。教育の定義ができずに教育を語り、非行の定義ができずに非行対策をするのと同じ過ちです。

 我は必ず悪いとは限りません。世の中にはお世辞も必要だし、好きな人を嫌って見せた方がうまくいくこともあります。戦術としてはよく使われています。しかし、それを戦略として使うととんでもないことになります。今問題にしている教育のように建前論が本音より正しいとしてしまうと、教育荒廃という結果が出てくるのです。また、我々はトレーニングにも我を用い、本来の能力を超えた結果を出すこともできます。これなどは、人間ゆえになし得ることです。


「空」と「我」とは何か

 さて、「空」と「我」について少し触れましたが、ここではもう少し詳しくご説明しましょう。
 前章の不快と快感の原理で、ライバルにテストで負けて嫉妬を感じた話を例に取り上げましたが、ここでもう1度そのケースを題材にして空と我の違いを明らかにします。重複する部分がありますが、復習という意味も兼ねて前述したことをもう1度繰り返しながら、空と我の相違について掘り下げていきます。

 「試験の点が、自分よりライバルの方が上だったので、猛烈な嫉妬を感じた」
 まず、嫉妬は「怒り」の変形で、攻撃するための感情です。この「怒り」は自分ではなく相手に向けられており、相手に対して「攻撃」という行動をとります。ここまでは本能のなせる技で自然なことなのですが、ここから理性の部分に移る過程で2通りの行動が発生します。
 1つは「空」の場合。この「怒り」を正しく理性に変えると、そのエネルギーは「勉強する」という行動を起こさせるわけです。そして次の試験でライバルと同等、もしくはそれ以上の成績を上げれば、嫉妬が消えるのはもちろん、心地良い満足感を得ることができます。つまり、嫉妬は「空」で使えば自分を進歩させ相手を傷つけません。

 ところが、人間は非常に頭のいい動物なのでいろいろ先のことを見通す力があります。今のケースに当てはめると、努力して勉強するのは長い不快が続くことになるということを知っていますから、その不快を避けようとします。知能が高い故の落とし穴といったところでしょうか。
 人間は本来、長時間にわたって強い精神的エネルギーを発生させられる動物です。前述した湿った感情がその能力を発揮しています。それが人間をここまで進化させた大きな要素といってもいいでしょう。しかし、この能力も「楽に不快を避ける」術にたけている人たちの前では無用の長物となってしまいます。この楽に不快を避けることは、自分がレベルアップして嫉妬を消すのが大変だから、相手を自分より下に無理に引きずり降ろして満足感を得る方法です。これにより、正当な「空」の方法で苦労しながら快感を得ることよりも手軽に快感を得て不快を避けることができます。
 たとえば、繁盛しているライバル会社を、関係省庁にワイロを贈っていると密告したり、ライバル視していた女が幸せに家庭生活を送っていたら、過去の男性関係をばらすなど、ニュースや映画・テレビドラマに見られるシーンから、相手のマイナス部分ばかりを見て、いい部分をわざと見ないようにするなどのマスコミの常套手段に至るまで、あらゆるところにその要素がみられます。

 また、自分一人では優れた相手には負けますが、大勢なら勝てるという方法を取る場合もあります。しかも、それに民主主義の仮面をかぶせて、自分は「いい人」と見せようとする、きれいごとの好きな人に多いようです。このような相手を無理矢理自分以下のレベルに下げる行為をさせるのが「我」としての嫉妬なのです。
 さらに悪いことに、こうした「我」としての嫉妬を繰り返しているうちに本音と建前が逆転して、相手を引きずり降ろすことのみが目的となってしまうことも多々あります。実に可哀想な人たちとしか言いようがありませんが、そういった人たちが多いのも事実です。

 一方、「空」としての嫉妬ならば、このように相手を傷つけることもなく、自分が進歩できます。このように同じ理性でも「空」と「我」では大きく食い違ってくるのです。


仏教から学ぶトレーニング方法

 仏教には「一切皆苦」という教えがあります。
 この「苦」とは不快感が発生することです。常に進歩しようと行動している人間には必ず「苦」が伴います。ですから、進歩する人間が不快感を発生し続けていることは当然のことなのです。
 いかに大きな不快感を長く発生し続けることができるかが、大きな目的を達成することにつながるのです。
 言葉を換えれば、「苦」を発生し続けられる人を「意志が強い」「執念深い」と呼んでいます。2つの言葉から受けるイメージは違いますが、根本は同じなのです。

 しかし、進歩のために「苦」が必要であったとしても、やはり「苦」は「苦」、不快は不快です。どうしても、その不快を乗り越えずに逃げようとします。弱い人はものに立ち向かう「怒り」より逃げようとする「恐怖」の方が少し余分に湧いてしまうのです。これでは大きなことは成し遂げられません。そこで日頃から「苦」を乗り越えるトレーニングが必要になります。
 負荷を次第に大きくしていき、量も増やしていく。つまり、大きな進歩を目指す人は、七難八苦が必要なのです。子供の頃から、大人に「苦」を取り去られた子供は、自分が大人になっても「苦」を乗り越える能力が身につかず「僕の人生こんなものさ」と早くも老境に達してしまうか、シニシズムに陥り、進歩を目指して努力している人間を「暑苦しい奴」と冷笑するかになってしまいます。

 仏教の解説がこの本の目的ではありませんので、1番使えそうな公式を1つだけ考えてみましょう。
 八正道
です。この八正道は、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の8つがありますが、ここでは「正念」についてだけ述べます。
 「念」とは不快感のことですから、トレーニングで進歩しようと思ったら、正しい不快感を発生させなければならぬということです。正念の反対が邪念で、それには面倒くさい、怖い、嫌だ、ごり押し等、または「怒り」が発生すべき時に「恐怖」が発生したり、「恐怖」が発生すべき時に「怒り」が発生するなどいろいろなケースが考えられます。ただ、最後のケースは犯罪の傾向が強く、進歩を目的とした場合は、圧倒的に前者、つまり「怒り」(正念)が発生すべき時に「恐怖」(邪念)が発生してします。面倒くさがり屋とか、アンニュイに浸って動かないとか、人生を空しがっている虚無主義や、「どうせやってもだめさ」というあきらめに格好をつけてみせるシニシズムの連中とかは、同じ邪念であっても、それはトレーニング以前の問題です。ですから、ここではトレーニングの最中に発生する邪念をどうするか、どのようにして正念にするかを述べます。

 「地面に置かれた幅30センチの板の上は平気で渡れる。しかし、それが地上10メートルの所に架けられたものなら、なかなか渡れない」
 宮本武蔵はこのことを"見切る"という表現を使って説明しています。板が地上であろうと空中であろうと同じことであると見切ることができれば、簡単に渡れるはずです。それならどうすれば見切ることができるのでしょうか。理性で両方とも同じことだから大丈夫と言い聞かせればいいのでしょうか。
 理性はそれでなんとか満足するかも知れませんが、本能はごまかされません。高い所は本能的に怖いものです。その「恐怖」が「怒り」を上回ったら身体は動きません。しかも、本能的な恐怖が理性を刺激し想像力をかきたてます。「恐る恐る渡ると、真ん中辺りで板が揺れて身体がぐらつく。バランスが取り切れなくなって地上へまっ逆さまに落ちる。頭が割れ、首の骨が折れて死んでしまう」
 この妄想が本能にフィードバックされ、さらなる恐怖を生みます。人間の見透す力、想像力、頭の良さが裏めに出てしまいます。この例の場合は、高い所が怖い、という本能的な恐怖が、板を渡る、という目的にとって邪念となっているのです。

 人間は、本能が予定していなかったことでも平気でやりますし、やれる動物です。高い所が怖いのは自分の生命を守るための正念ですが、それが今の目的の前では邪念となってしまいます。だから、今の目的を達成しようと思えば、そしてその目的は理性的に考えれば充分可能なことだから、ここはそれ以外の本能にはしばらく引っ込んでもらうことにした方がよさそうです。つまり、目的以外のことに頭をさかないようにすればいいわけです。目的だけを考えればいいのです。
 さて、そこで次の展開です。渡ろうかどうしようかとためらい、思い切れないでいると、いきなり大きな熊が現れたとします。その時、発生した「恐怖」と「驚愕」が、「落ちる」という「恐怖」をはるかに上回り、あっという間に板を渡って逃げてしまいます。
 これと同じ状況をできたら人為的に自分自身でつくります。本能を理性に変える時に目的のことだけに絞り込み、その他は理性に変えないようにするのです。目的だけに全神経を集中する。人間はこんなことまでやってのけます。これが「一期一会」です。そのためには強烈な集中力が必要であり、このような集中力(意志)のことを「正定」といいます。

 しかし、このように一事のみに集中するということは、言うにたやすく行うに難し、まことに難しいものです。我々、常人には不可能なのです。そこで、その一歩手前の我々でもできる方法を取らざるを得ません。その前にもう1度、我々が行動に至るまでのメカニズムを見てみましょう。
感覚−→不快感−→意志−→行動−→目的達成
(感)    (念)    (定)

 ですから、正念は正感、つまり、五感(時には六感まで)を正しく使えばよいことになります。これなら我々常人でもできそうです。


六感を働かせ、重心を取る

 ウィンドサーフィンは抜群の機動性を持つおもしろい乗り物です。そのためにボード(船)は極端に軽くかつ不安定にできています。まず、この不安定なボードの上に立てなくては何も始まりません。ボードの上に立つ、という目的のための「正念」を発生させねばなりません。そのためには六根(眼耳鼻舌身意)を正しく研ぎ澄まして使わなければなりません。六根清浄です。行動の場合はとくに目が重要です。
 人間は頭がいいから、自分の弱さを人に頼ることにより解決しようとします。海の上でグラグラと頼りなく揺れるウィンドサーフィンのボードにさえ、思わず頼ってしまいます。左図のようにボードの浮力の中心と人間の重心を一直線にすれば安定します。しかし、海面は常に波で動くし、人間もじっとしているわけではないので、人間の重心とボードの浮力の中心がはずれてしまい、そのままではひっくり返るか、海に落ちるかするので身体を移動して中心と重心を合わせねばなりません。

 ところが、初心者はこれが逆になり海に落ちてしまうのです。落ちる人を見ると目が下を向いているのがわかります。ボードが傾いたら、その反対方向に腰を移動しなければならないのに、思わずボードに頼ってしまう人はボードに対して垂直になろうとします。ボードを地面と同じに考えてしまうのです。目を下げて頼りのボードを見ているのです。ところが、重心と中心を合わせるというのは、重力方向に合わせることです。つまり、人間の重心とボードの浮力の中心と地球の中心の三点を一直線にすることなのだから、ボードに垂直になってしまっては、悪い方に、すなわち落ちる方に行動していることになります。
 重力軸、つまり地球の中心方向は必ず水平線に直角になっていますので、目で水平線を睨みつけていれば身体は自然に正しい方向に移動します。この例の場合、下を向いてボードを見ると邪念が発生しますが、ただ顔を上げて視線を水平にするだけで正念に変えることができるのです。

 もう1つ重要なことは、人間の重心の安定です。重心がどっしりと固定されているか、滑らかに動いていなくてはなりません。人間の動きは、各関節を中心とする円運動の組み合わせですから、全体の中心である重心が安定しなくては、ギクシャクしたまずい動きになってしまいます。自分の重心の動きを滑らかにするためには、五感を使ってもなかなかうまくいかないので、第六感を使います。第六感は超能力、オカルトの匂いがしますが、それは第六感が異常に強く出た場合です。
 第六感は五感(眼耳鼻舌身)以外の感覚で、直接脳神経系に働きかけてくるものです。時間の感覚はまさに第六感です。あるいは眼をつぶって片足で立ちバランスを取る場合は、三半規管が直接重力を感知しているのだから、これも第六感に属するものです。私は東京に行くたびに大井町の戸嶋さんという気功師の所へ寄りますが、ものすごく「気」の強い人で、そこで自分がやってもらったり、見たりすると、この第六感の重要性をひしひしと感じさせられます。

 人間の重心は丹田と呼ばれており、膝下丹田といわれているようにヘソの少し下にあるようです。ここを"意識する"ことにより、重心が滑らかに移動しだします。丹田を意識すれば、重心の動きがわかるようになるので、それからフィードバックされ、自然に滑らかに動くようになるのでしょう。動きのある時はいつも意識の一部を丹田に置いておくことは、言うのはたやすく、行うは難しいことですが、必ずなさねばならぬことです。
 普通第六感というのは外から来るものを感知する受動的なものと考えますが、このように能動的な使い方もあるのです。これにより働きに1番重要な重心の滑らかな運動のための正念を発生させることができるのです。


強い意志を自然に出す

 八正道の最後の要素「正定」は、強く正しい意志のことです。座禅やヨーガはこの「正定」のソフトウェアを創るのが目的になっています。つまり、集中力を極端に高めるトレーニングによって意志を強くしているのです。
 この強い意志とは、意識しなくても、ごく自然に1つのことに集中できることです。無理に集中するのではなくて、スッと集中することができるレベルに達することが必要なのです。歯を食いしばって頑張ったところで、この「正定」の域には到達していません。
 我々はとかく、トレーニングさえすれば何とかなると思いがちなのですが、八正道の法則が示す通り、それは進歩のためのたった1つに過ぎないのです。ですから、もし進歩がはかばかしく感じられないようならば、八正道の1つ1つを見直すことが大事でしょう。

 このように、仏教には示唆あふれる教え(公式)があり、我々はそれを利用することによって、不快感を正しい意志、行動に結び付けることができるのです。
 2,500年もの長い間、多くの人々の暮らしに生き続けてきた仏教には、我々の未来にも指針を与えてくれる教えがあることには間違いありません。