登校拒否、家庭内暴力……(前)


 「お父さん、こげん話が出とっとよ!」
 原明子の母親の恵美子は新聞をワシづかみにして、店にいる夫の三郎の所へ飛んできた。
 それは、長崎新聞の夕刊である。
 彼女は新聞を開き、3面の記事を指さした。
 <ヨットで登校拒否を治療>
 こんな見出しで戸塚ヨットスクールのことが大きく紹介されている。厳しい訓練の過程で、1人の登校拒否児童が死亡するというショッキングな事故も報じられていた。しかしその一方で、多くの登校拒否児童たちがこの厳しい訓練によって治療され、親たちから喜ばれている――として、さまざまな例が挙げられ、訓練の模様も描かれていた。
 「お父さん、これしかなかと!」
と、恵美子はせきこむように、夫にいった。
 「アッコば、この学校にやってみんとね!」

 長女の明子が登校拒否症にかかって以来、両親は、効果があると勧められた治療方法には、それこそワラをもつかむ思いで、すべてすがってきたのだが、明子の症状は悪化する一方だった。
 「これではない」
 「これも違う」
 恵美子は、それらの治療を受けるたびに、どこか違うような、娘の病気の治療にはもっとふさわしい別の方法があるような気がして、釈然としない思いが残っていた。その思いが、この新聞記事を読んだ時、ふっ切れたような気がした。
 なぜ、そう思ったのか。
 恵美子は筋道を立てて説明することができない。
 しかし、明子の病気は、医者や薬の対象ではない。精神を鍛え直すといった何かスカッとした方法がふさわしいのではないかという気が、漠然としていたのである。
 「ウーム?!」
 記事を読み終えた父親の三郎は、腕組みをしたまま、大きく首をかしげて、考え込んでしまった。
 新聞記事のいうように、本当に治る例もあるのかもしれない。
 しかし現に、子供が1人死んでいる。男の子でも死ぬような厳しい訓練のなかへ娘を放り込んで、もしものことがあったらどうするのか。
 父親の方が冷静だったといういい方もできる。しかし、同じ家族でも、被害を受ける度合いによって反応の仕方が異なる。娘と四六時中つき合い、最も被害を受けている母親は迷うことなく、スパルタ訓練による治療に賭けようとしていた。
 それに比べ、仕事に出ていて少しは娘の状態から目をそらせることのできる父親には、母親ほどの緊迫感がなかったのかもしれない。
 三郎は迷った。
 「親戚に相談ばしてみる」
と彼はいった。


 長崎市鍛冶屋町で楽器店を手広く営む原三郎の長女明子が最初に登校拒否を起こしたのは、中学3年の時だった。3学期の期末試験が明日から始まるという日の朝、突然、学校へ行きたくないといいだしたのである。
 「わたしはダメな人間だ。生きていく望みがなくなった」
 両親が何を聞いても、明子はそういってシクシク泣くばかりだった。
 明子は期末テストだけは受けた。それを受けないと高校受験の資格がなくなるからという両親と担任の先生の説得が効いたのである。もともと五百人近くいる学年全体で10番以内、調子のいい時にはトップを争うほど勉強の出来る子だったから、テストには自信があったのかもしれない。

 が、このころから明子は急速におかしくなり始めた。
 それまでは店を手伝うこともあったが、このころを境に部屋に閉じこもることが多くなった。昼と夜が逆転し始め、夜、家族が寝静まってから起きてきて、冷蔵庫をあさるといった生活が続く。勉強好きだった子供が学校の本を読まなくなり、母親に、同じような記事の載った女性週刊誌を何冊も買ってこさせて、徹夜で読みふける。
 パジャマを買ってきてくれと母親にいう。買ってくると、これは気に食わない、あれも気に入らないと突き返して、何枚でも買わせる。
 食事の時、食卓に足を乗せてふんぞり返り、
「こんなまずいものが食べられるか!」
と食器をひっくり返す。
 家族がそろってテレビをみていると、部屋から出てきてわざとチャンネルを回してしまう。
 時計、指輪、ネックレスといった母親の高価なアクセサリーを持ち出して、捨ててしまう。
 母親が店番をしていると、居宅にある別の電話からわざと何度も電話を掛けてきて、客の応対ができないように妨害をする。
 気にさわるようなことを何かいったり、したりしようものなら暴れ狂うから、家族はハレものにさわるような扱いである。ご機嫌をとるために好きなピンポン台を備え付け、相手をすると、フラフラになって倒れるまでやらされる。明子が「いい」という前にやめようものなら、ピンポン台はひっくり返す、ラケットは投げるの大暴れである。

 明子は遂に1万円札を持ち出して火をつけるところまでいってしまった。仏間の方で紙の焦げるようなキナ臭いにおいがするので父親が行ってみると、蒼白な顔の明子がメラメラと燃える1万円札を持って仏壇の前に立っていた。
 こんなことを毎日やられると、家族も狂ってしまう。明子を殺すか、一家心中をするか――父親は連夜、浴びるように酒を飲んでは荒れ、一家はギリギリのところまで追いつめられていた。


 明子は映画、とくに洋画が好きである。
 「映画へ行かせてくれれば、店番をする」
 高校2年で再び登校拒否を起こしてから、明子は母親の恵美子に提案をした。
 明子の家は長崎市で商店を営んでいる。
 この時点では、明子は学校へ行かないということが異常なだけで、それを除けば、ふつうの女の子とそれほど変わらなかったといってよい。
 しかし、父親の三郎は明子の提案を蹴った。
 「学校にも行かないで、何をたわけたことをいうか!」
 父親としては、しごくもっともな言い分である。
 明子が暴れ狂うようになったのはこのころからだが、その兆候は中学3年の期末試験直後にさかのぼる。
 試験が終わった翌日から卒業まで、パタリと学校へ行かなくなった。友達や先生が何度迎えにきてくれても、ガンとしてきかなかった。
 それでいて、高校の入試は受けた。不思議な現象である。優秀な生徒の集まる長崎市内の県立高校に、500人中71番で合格した。3学期に全然受験勉強をしないで、である。
 そして、1年間は無事登校した。
 両親はホッとした。
 ところが、高校2年になったとたん、再びパタリと学校へ行かなくなったのだ。今度の登校拒否は本格的で、症状が悪化し、一種の家庭内暴力を伴うようになった。

 最初の登校拒否の理由を、なだめすかしてうまく引き出してみると、友達が自分だけをのけ者にし、いじめるからだと本人はいった。先生がその友達に尋ねてみると、そんなことは絶対にない、と主張した。ヤブの中だが、ともかく本人はそういうことを理由に挙げた。
 高校の1年生の間だけ登校したのは、登校拒否を起こす以前、つまり中学2年まで一緒だった仲のいい友達がまた同じクラスになったからだと明子はいった。
 高校2年になって再び行かなくなったのはクラス替えがあって、仲の良い友達とまた別れてしまったからだといった。
 登校拒否や家庭内暴力など情緒障害児の特徴は甘えと、環境への適応能力欠如が表裏一体となって存在することである。
 明子の場合も、自分の好きな友達と同じクラスでなかったから、というのは身勝手、甘えである。嫌だなあというくらいの気持ちはだれにでもあるが、登校拒否児童は自分に甘く、このため学校へ行かないというところまで突き進んでしまう。
 本来なら、どんなクラスであろうと、新しい環境に自分を適応させていかなくては、生存競争に生き残ることはできない。それができないほど明子は精神力の弱い人間に、どこかでなってしまったのである。

 明子を回復させるために打つ手は、もはやないように両親には見えた。
 最初に訪ねたのは長崎市内の精神科医である。
 医師は「自律神経失調症」と病名を書いた。
 そして、精神安定剤と睡眠薬を注射した。明子は、その直後だけは気持ちが少し落ち着き、よく眠るが、薬が切れると以前よりひどくなる。親にはそれが一時しのぎの療法にしかすぎないように思え、繰り返すと麻薬のように、段々悪化していくのではないかと不安になった。
 通院はやめてしまった。
 次に紹介されたのは大学病院である。
 医師は明子にいろいろ聞こうとするが、明子は一言も答えない。仕方なく母親の恵美子が代わって通院し、経過、症状を報告して指示を仰ぐ方法に切り替えたが、医師としても決め手となる有効な措置が見つからないようであった。
 「念のために、入院させてみましょうか」
と担当医はいった。
 「以前、入院させるぞと脅したら、びっくりして学校へ行くようになった子供の例がありましたがね」
 ありがとうございます、と丁重に礼をいって、母親の恵美子は以来、病院へ行くのをやめた。そんなことでいうことをきく状態は、とっくに過ぎているように思えた。となると、本当に入院せざるを得なくなる。また注射を打たれ、症状が悪化していよいよ本物の精神病に近づいてしまうようなことにでもなると、明子を廃人に追い込むようなものである。

 その次は、日本屈指といわれる高名な専門家の主宰する病院。情緒障害児ばかりを共同生活させながら治療の効果をあげている、ということだった。
 一流の専門家と聞き、最後の頼みの綱と思った両親は、すぐにでも寮に入れるようフトンまで車に積んで行ったのだが、その高名な医師は明子に向かって、
「自分から治ろうとする意思がなくてはダメです。今度からは1人でいらっしゃい」
といい、両親に対しては、自分の著書の名を挙げ、よく読んでから来るように、と告げた。
 「1人でいけるような状態なら、苦労するか!」
 失望した両親は再びその専門家を訪ねることはしなかった。もちろん、明子が1人で出かけて行くはずもない。
 「万策、尽きたな」
と父親の三都は悄然(しょうぜん)として妻にいった。
 「アッコのことは死んだもんと思ってあきらめんと仕方なか」
 恵美子は目を真っ赤にしたまま黙っていた。

 困り果てた人たちがよくそうするように、2人は祈祷師の門をたたいた。
 戸塚ヨットスクールに明子を入れるかどうかについて、三郎は親族の意見を聞いて回ったが、賛成する者は1人もいなかった。
 「お前、あそこで子供の死によったことば知っとっとか」
親類の1人はいった。
 「知っとる、知っとるから迷うとる」
と彼は答えた。
 「シゴキの激しかけん、子供が死によったと。アッコもそげんして死んでしもうたら、どげんすっとね」
 三郎は娘を諦めたつもりだった。あらゆる手を尽くしても明子の症状は悪化する一方であった。諦めたのなら、死んだつもりでヨットスクールへ入れてみればいいではないか、と自分にいいきかせてみた。だが、もしものことがあったら、どうすると問いつめられて迷うのもまた親心である。いかにひどい状態にあっても、娘が可愛くないわけがない。
 考えあぐねた三郎は、ふらりと酒を飲みに出た。
 行く先はいつものように知人の永尾宰治の経営する店である。

 永尾は東京の大学を出た、大きな造り酒屋の社長でありながら、立ち飲みの店を開いて客と話をするのが楽しみという気さくな男だった。三郎とは8年越しのつきあいで、明子のことでもなにくれとなく相談に乗ってくれていた。
 「アッコちゃんのことは、つらかろうが、突き放した方が本人のためだ」
 彼が戸塚ヨットスクールの件を持ち出したのに対して、永尾はいった。
 「突き放せぱいずれ、ちゃんとした人間になって帰ってくる。可愛い、可愛いで甘やかしてぱかりいると、いつまでたっても立ち直れないよ」
 今日初めて打ち明けるのだが、実は自分の身内にも同じようなことが、かつてあった、と永尾はいった。
 「だから、あんたの気持ちはよくわかる。わかるからこそ、突き放した方がいい」
 永尾の身内の場合も突き放したことによって、本人は立ち直ったという。
 「ありがとう」
 三郎は永尾のところで造っている『峰の雪』を冷やでグイッとあけると、家へ急いだ。
 「母さん、アッコはヨットスクールへやることにする」
 三郎は妻の恵美子にいった。母親は、やっとその気になってくれましたかといった表情で、ホッと胸をなでおろした。
 2人は明子を呼んでヨットスクールの話をして聞かせ、お前がちゃんとした人間として立ち直るためなのだから、お父さんたちのいうことをきいてくれ、と頼むようにいった。
 「よかとよォ」
 意外にも明子は抵抗せず、無感動にいって、ジロリと両親を見た。
 「お父さんも、お母さんも、わたしば殺すとね」

*        *

 むしむしする暑さが残った夜、新入りの若者がヨットスクールを脱走した。ヒッチハイクして、車を3回、乗り換えながら東名高速道路を東京方面へ。逃げ込んだのは、東京郊外にある中学時代の同級生の家であった。同級生の父親は、さっそく大阪にある若者の実へ電話を入れ、父親を呼び出した。
 「息子さんは、ヨットスクールへ戻りたくないといっていますが……」
 「息子を、ヨットスクールの方々に引き渡してほしいんですわ」
 大阪の父親は繰り返し、同じことをいい続けた。
 同級生の父親は、大阪の父親がなぜ頑固にいい張るのか、わからなかった。彼はちょっと突き放すような調子でいった。
 「あなたは冷たい父親ですなあ。息子さんがこんなに嫌がっている所へ、どうしても帰れというんですか……」
 「すみません、ヨットスクールへ……帰して下さい……」
 大阪の父親の、しぼり出すような声に、深い苦汁と哀願がこもっている。
 同級生の父親はなにかしら胸に響<ものを感じて、ようやくとりなすようにいった。
 「それじゃ、もう1度、息子さんと語し合ってみましょう。しばし、私にまかせて下さい。また、ご連絡します」

 受話器を置いた同級生の父親は、かたわらにいる若者の方に向き直った。
 「お父さんは、どうしても、君にヨットスクールへ帰るように、といっておられるが……」
 若者は青白い顔をこわばらせ、
「イヤです!」
と叫び出さんばかりの声でいった。
 「どんなことがあっても、ボクは帰りません。お願いです。ボクをヨットスクールの人たちに引き渡さないで下さい。あそこへ帰れば、ボクは殺されてしまいます。お願いです!」
 親子の間で、なぜ、こんなにも食い違っているのか。
 一瞬、同級生の父親の表情に戸惑いが浮かんだのを若者は見逃さなかった。
 「何度もいったとおりです。本当なんです」
 若者はたたみかけるようにいった。
 「もう1度、ボクの体のアザや傷を見て下さい。これはヨットスクールで受けた暴行によって出来たものなんです。ふつうの人間に耐えられるようなものではないんです」
 若者の訴えは、一見、理路整然として説得力があるように思われた。
 「お願いです。ボクをヨットスクールへ帰さないで下さい!」

 「随分時間がかかるなあ」
 激しく降りしきる雨をながめながら山口孝道は、ひとりごとのようにつぶやいた。
 「本当だ。あれから1時間半はたつんじゃないか」
 横田吉高は、はじき飛ぱばされてくる雨滴を避けながら応じた。
 2人は戸塚ヨットスクールのコーチである。
 彼らは若者の行方を追って、その日の夕方5時、神奈川県に近い東京郊外にあるマンモス団地に到着した。若者が逃げ込んだ中学時代の同級生の家が、そこにある。
 早い時間に踏み込むと、若者が暴れた場合、近所の手前、相手の家に迷惑をかけることになる。2人は約3時間、外で待ち、夜の8時にその家を訪ねて若者を引き渡してくれるよう頼んだ。
 大阪に住む若者の父親は戸塚ヨットスクールに対して、息子を捕まえ、連れ戻してくれるように頼んでおり、2人のコーチはその依頼を受けて若者を引き取りに東京までやってきたのだった。
 だが、その家の主婦は、
「ちょっと待って下さい」
と怪訝そうな一瞥を残して中にひっ込んだまま、さらに1時間半以上が経過している。
 時計は午後9時半をだいぶ回っていた。

 「この家の驚き、わからんわけでは、ないがな……」
 山口と横田は薄暗い電灯の下で顔を見合わせた。目の前を、雨が激しい勢いで落ちてゆき、コンクリートにはねかえっている。
 彼らはよくこんな場面に遭遇していた。
 この家の人たちはおそらく、逃げ込んできた若者の、素直で勉強のよくできる少年時代の姿しか知らないはずである。
 自分たちの息子と仲良しだったその少年が、何年か後に突然、逃げ込んできて、殴る、蹴るのひどい暴行を受けた、殺されるかもしれない、助けて下さい!と涙ながらに訴えたら、だれだって彼のいうことを信じるだろう。
 若者は昔日の可愛い子供の姿を髣髴(ほうふつ)させるように色白で、利発そうな顔だちをしており、その彼が訴えながらめくって見せた体にはアザと傷の跡が残っている。
 しかも、
「引き渡していただきたい」
と、その若者を引き取りに訪れた2人の男は、真っ黒に日焼けした肌と屈強な肉体、トレーニングウエア、ゴム草履ばき。
 上下そろいのダークスーツにネクタイを締め、カバンを下げて毎日、同じ時間に満員電車で会社へ通う青白い顔が圧倒的多数を占める近代社会の住人たちにとって、突然、扉をたたいたこのエイリアンを、自分たちと同等、あるいはそれ以上の教育と教養を身につけた一流のヨットマンであると理解するのは、不可能に近いことかもしれない。


 電話のベルが鳴った。
 脱走した若者の大阪の実家へ出向いていた東秀一が受話器をとった。東京へ行っている山口と横田からだった。
 東も戸塚ヨットスクールのコーチである。
 「まだ語し合いが続いているんです」
 東京のもようを尋ねた東に2人は報告した。
 「あの男を相手にいくら話し合ったって無駄なんだけど、ふつうの人にはわからない。もう1時間半以上、どしゃ降りのなかで待たされ、イライラしているところです」
 東の耳に、電話を通して激しい雨音が聞こえた。東のいる大阪はもっと激しい暴風雨の圏内に入っていた。北東に進む台風の影響が東京の方にも出はじめているのだろう。
 「そちらの方で息子さんの引き渡しが無事完了し、河和の合宿所へ向かうことが確認されるまで、私は大阪にとどまります。ご家族の方はそれを望んでおられるので……」
 東は山口と横田に告げた。
 「引き取りが成功し次第、また電話を入れます」
と、山口と横山はいった。
 「ご苦労さま……」
 東京と大阪は、どちらからともなく相手をねぎらって電話を切った。大阪へ来た東も、東京へ向かった山口、横田も、ヨットスクールを出発してから、まる1日以上眠らないままの緊張が続いていた。

 若者が脱走したことがわかった直後、コーチの東と横田は河和の合宿所を車で出発、深夜の名神高速を飛ばして、大阪の若者の家に真夜中すぎに到着した。
 横田コーチは、その後若者が東京へ逃げていることが判明してから東京へ移動することになるのだが、この時点では東に同乗して大阪へ向かっていた。
 「息子が合宿所から真っすぐ家へ帰って来るようなことになると、私たち一家は皆殺しにされてしまいます」
と、脱走した若者の父親が悲痛な声で助けを求めたからである。
 その若者は長髪、白面の優等生タイプで、体力はないが、策謀にたけていた。
 どんな策略をめぐらせるかわからないので、コーチ2人が両親とOLの妹、計3人の家族の護衛に駆けつけたのである。
 深夜、屈強なコーチが2人姿を現したのを確認すると、家族は張りつめていた気持ちがふっとゆるんだように、ヘナヘナとその場にすわり込んでしまった。
 息子が脱走したという知らせを受けてから2人のコーチが到着するまでの数時間、一家3人はいつ息子が現れ、襲いかかってくるかもしれないという恐怖に、家じゅうの入り口や窓に鍵をかけ、文字どおり肩寄せ合ってそれぞれ入り口や窓の方を睨みながら、ガタッという音がするたびにハッと身がまえるという極度の緊張状態の中に置かれていたのである。


 20歳のその若者は登校拒否症が極度に悪化し、悪質な家庭内暴力をふるうようになっていた。
 はっきりと登校拒否を始めたのは高校に入ってからであるが、両親、とくに母親の記憶によると、中学に入る時に原因の1つが発生していたのではないかという。
 父親はさる大手企業のかなり上の方の地位にあり、転勤が多かった。
 小学校6年の時、一家は金沢市に住んでいた。情緒障害児の多くがそうであるように、この子供も成績がよく、勉強の好きな、まじめでおとなしい少年だった。
 中学は金沢大学の付属を受け、見事にパスした。
 付属は優秀な子供の集まる中学であり、本人も親も大変喜び、満足していた。
 ところが、不運なことに付属合格の直後、父親が急に東京へ転勤することになった。父親にとってその東京転勤は栄転だった。
 両親は悩んだ末、いったんは父親が単身で東京に赴き、残る家族はしばらくの間、金沢に住む別居生活をすることに落ち着いた。
 が、父親が転勤と同時に胃潰瘍を患い、手術しなくてはならなくなった。父親1人を放っておくわけにはいかず、一家は東京郊外に住宅を求めて移り住み、子供はやむなく中学を入りなおした。
 子供はこの時、付属中学を変わりたくないと強硬に抵抗し、東京の新しい学校へ行くのを嫌がった。後にして思えば、これが登校拒否、家庭内暴力につながる最初の大きな原因だったのではないかというのが母親の話である。

 しかし、この子は中学では登校拒否を起こさなかった。
 勉強がよくでき、いうことをよくきく、模範的生徒で、近所の親たちは、
「ああいう子を友だちに持ちなさい」
と自分の子供に勧めるほどであった。
 その1人に、今度、この若者が逃げ込んだ家の子供がいたのである。したがって、その後のことを何も知らないその家族が、逃げ込んできた若者のいうことを全面的に信用するのも無理からぬ話であった。顔立ちも、話す内容も、利発で育ちのよいかつての少年の面影を残している。肉親に対する時だけ、この若者の心がハイドに変わっていることを、外部の誰も気づいていない。
 実は、このジキルとハイドこそが、家庭内暴力の特徴であるのだが……。

 彼が高校へ入る直前、一家は東京から大阪へ移った。彼が登校拒否を始めたのは、高校入学後のことである。
 自分で選んだ高校だったが、入ってみると自分が予想していたよりはるかに水準の低い学校だというのが不満蓄積の原因だと、母親はいっている。
 それでも悲惨な家庭内暴力は、まだ起きはしなかったのだが……。
 この若者が目を覆うような家庭内暴力をふるうようになったのは、本人が大学へ入ってからのことである。
 高校の1、2年生の時には、時折り学校を休んだ。3年になると登校拒否がかなり激しくなり、3学期などは、ほとんど学校へ行かない状態だった。
 それでも並の生徒よりはるかに成績がよく、大学は開高健の母校でもある大阪市立大学にストレートで合格した。
 3年生のころ、すなわち他の生徒たちが受験勉強に懸命の日々を過ごしている時期、彼は昼間眠り、夜は番組が終わるまでテレビを見、それでも足りなくて深、深夜放送を聴きながら、マイコンをいじり回すような生活を送っていたのに、である。

 大学の専攻は理学部数学科。
 子供のころから計算にめっぽう強く、やがてマイコンいじりが3度の食事より好きになった。
 「大きくなったら、何になるの?」
 「IBMへ入って、コンピューターやるんだ」
 この答えは、子供のころからずっと変わらなかった。
 情緒障害に共通している特徴の1つを挙げると、数字にやたらと強くて、常識あるいは良識がおそろしく欠如しているということである。
 戸塚ヨットスクールには、日常の言動、理解力、その他人間としての能力が、幼児と変わらない、知恵遅れのような中学生がまぎれ込んでいる。
 ところがこの子は不思議なことに、誰が何番の番号のついたヨットに乗って海へ出たか、生徒の全員について見事に記憶している。
 もう1人の若者は、日常的な行動については世間に出ると全く通用せず、使いものにならないが、数字のこととなると、2ケタ同士の掛け算がたちどころに出来るのである。
 総じて、英、数、理、国、杜の5科目、それもぺーパーテストがよくできるのに実験や音楽、体育、家庭科などが極端にダメな子供、クイズと計算はできるが、応用と実務が全くダメな子供が情緒障害になりやすい傾向がある。
 夫の地位や給料、貯金の計算にたけ、子供の試験の点数や成績、先生のことは必要以上に気にするくせに、家族にコロッケ、カレーライス、インスタントラーメンばかり食べさせるのは気にならず、掃除、洗濯がまるでダメというママゴンがいる。そうした大人たちが増えている社会だからこそ、情緒障害児が深刻な社会問題として浮かびあがってきているのだ――と専門家たちも指摘している。
 脱走した若者はクイズとペーパーテストの社会が作りあげた「最も優秀な作品」なのかもしれない。

 母親の話によると、さしたる受験勉強もせず簡単に大学へ入学できたことがこの若者の不満をかりたて、さらに激しい登校拒否と家庭内暴力に向かわせたのだという。
 「京大へ行く」
と彼はいいだした。
 学校にも満足に行かないでいて大阪市立大学へストレートで合格できた自分の能力からすれば、京都大学理学部の合格は可能なはずであり、将来、IBMで出世するためにはやはり、市立大より京大でなくてはダメだというのである。
 この若者は、合格した市立大学に約3ヶ月ほど、行ったり、行かなかったりしたあと、予備校に入った。
 そのために親は約30万円を支払ったという。
 ところが今度は、その予備校へも行かなくなってしまった。こうなってくると、京大へ行きたいから市立大をやめたのかどうかも怪しくなってくる。情緒障害の人間は、自分が何もしないための理由と、それを他人のせいにする口実を次々に見つけ出す異常な才能を持っているのである。
 コンピューターが好きだから、IBMに入りたい。IBMで出世するには市立大より京大が有利だ。だから市立大をやめ、京大受験のために予備校へ行きたい。
 一見、理路整然としているかに見える。甘い親はこれにコロリとだまされてしまう。
 ではなぜ、最初から京大に挑戦しなかったのか。彼は市立大という安全な場所に逃避したのではないか。逃避した自分に腹がたって、市立大をやめてしまった。だが、京大に受かる自信はもともとなかったから、予備校に行かず逃避したのではないか。
 彼はもし京大卒業後にIBMに入り、出世できなかったら、やはり東大出でなくてはダメだと逃げるだろう。